金源堂

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金源堂とは

遠くは清和源氏、新田義貞の後裔と伝え、下って金ケ崎城主となるも女系が続き、人取り橋の戦いで功績を上げた大町家が本家争いを制して金ケ崎城主となる。時を経て文化の頃より職人を使い伊達家に刀を収める仕事を行う。古美術商としての初代は金ケ崎八右衛門であり、刀剣の傍ら骨董を始めた文化8年を創業年としている。旧本材木町(現在の立町)に屋敷を構え、維新より質屋も兼ねる。しかし、質屋は他人の同情ばかりして成り立たず、大方の財産を無くす。

次男源兵衛は2代目を継ぎ骨董専一に勢を出し、通称玉澤横丁中央北側に店を構える。なかなかの目利きであり、博識でもあったので何かとみんなの相談を受け氏名の頭文字をとり金源さんのあだ名で親しまれ、いつしか金源が屋号となり金源堂となる。

一人娘のふよに、中村家より喜蔵が婿入りし3代目を継ぐ。大変な普請好きで晩年には間口8間、総檜吹き抜けの2階建ての店を構えた。この建物は翁朝盛氏の父、堂宮師の翁金六氏の建てたものであった。また、看板は元芭蕉の辻、19軒にあった龍玉肉園の看板を買い、佐々木巴渓氏に書画骨董と4文字、左側に小さく金源老舗と書したもので、枠は鯉の滝登りと松竹梅の四方透かし、欅の一枚板で全国名看板集に載っていたが建物もろとも戦災で焼失してしまった。

4代目次男の二郎は各大名の売り立てや多くの重要美術品、名品を扱い、戦後まもなくは進駐軍が来店しマッカーサー元帥夫人来店の折り、偉い人ほど日本の風俗習慣を知っているからと家に靴のまま上がるのを拒否し、GHQに「夫人の靴を脱がせたのはあなただけだ」と言われ、却って名を馳せた。この時夫人は三段の引き出し色彩を施した豪華な印鑑箪笥を求められました。

米国に一級品をやりたくないと頑張っていましたが、カーナルアイオット将校夫人のお母さまがボストン美術館の日本部におり、日本の古美術の良き理解者でやむなく惜しい品も輸出した。

5代目次男伸二は国学院大學史学科在学中に茶道研究の第一人者桑田忠親教授の研究室で学び、その経験を活かし茶道具に力を注ぐ学芸員資格や茶道の造詣を活かし地域の文化振興活動、また青年会議所運動では理事長を務めるなど仙台市の都市問題にも取り組み地域社会発展にも寄与している。 6代目長男政伸は地元大学を卒業後、礼儀見習いのため京都大徳寺龍光院にお世話になる。その後、金源堂に入社し現在に至る。現代社会の生活環境に合わせた新たなアプローチで新・古美術、特に器や酒器、茶器等若い人たちに興味を持っていただき、普段の生活の一部に楽しく取り入れることで、こころ豊になればと模索中。

<参考資料>
仙台のしにせ
市民が選んだ仙台100店
仙台商工会議所創立100周年記念
創業100年以上仙台のしにせ